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宮崎には、そう多くクラシックカーを所有している方はいません。
今回、紹介するクラシックカーはこの秋に宮崎県都城市で開かれたクラシックカーフェスティバルに参加されたオーナーの方の愛車です。

このクラシックカーフェスティバルは4年前に始まりました。今年が4回目と言うことで、毎年毎年参加する車の数も増えてきて、今年は100台近くの参加を見ました。

クラシックカーと書けば、ほとんどの人が英国やアメリカ、イタリアの高級な外車を思い浮かべることと思いますが、この宮崎のフェスティバルに展示されている車は、1970年代の国産の人気車がほとんどで、特に高級感のある外車の出品はありません。
ただ、オーナーに話しを伺うと、やはりみなさん大変な車好き。中には1000万円近くかけて手入れした車や、フェスティバル当日の朝、納車して参加したオーナーなどさまざまです。
見れば、懐かしい車のオンパレードです。昔を思い出すはずです。
   

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右図の写真は、メルセデスベンツス500Kスペシャルロードスター8気筒スーパーチャージャー付き4982cc 160HP/3400RPMです。いかにもクラシックカーと言う趣きです。残念ながら宮崎の人の所有ではありません。鹿児島からはるばるやってきました。
 1935年(昭和10年)、W29スペシャルモデルとして生産されたもので、最上級モデルの1台です。もちろん、アメリカでも押しも押されもしない代表的なクラシックカーです。この車は、米国カリフォルニアの有名なCRAFTMAN・Mr.J.TOMY氏により数年の歳月をかけて、1986年(SHOUWA61年)ここまで再現されました。関係者やカーマニアからは自動車美の極限と称されています。実際、指1本触れるのもはばかれるような素晴らしい仕上がりです。ナンバープレートはぼかせていただきましたが、今でも鹿児島に行くと走っているその美しい姿を見ることが出来るかもしれません。ただ、広々とした宮崎の道にも似合いそうなクラシックカーで、まさに道路のスター・・ロードスターです。

上の車はおなじみの「アメ車」。キャデラックです。これも宮崎の人の所有ではありません。鹿児島からの参加です。まだガソリンが安かった頃のクラシックカーです。今ではとても通勤や長距離ドライブには適さないでしょう。燃料がいくらあっても足りません。そこがクラシックカーのクラシックたる所以なのですが。
正式には、CADILLAC ELDOLADO BIARITZ CONVERTIBLE(キャデラック・エルドラド・ビアリッツ・コンバーチブル)と言います。エンジンは、V型8気筒 4100cc  125HP/4200RPM
年式は1984年と比較的新しい車です。クラシクカーの範疇には入りませんが、威風堂々としていてさすがキャデラックと言ったところでしょうか。キャデラックの歴史は古く1903年、アメリカのリーランドによりこの世にデビューしました。
以来、いつの世にも世界最高の車として名声をほしいままにしてきました。
ところが、メーカーのゼネラルモータースは1976年、突然そのトップモデル・CONVERTIBLE
の生産打ち切りを発表し、世界中のキャデラックファンを失望させました。
その後、米国に西海岸のコーチビルダーACC社がセビルをベースのカスタムカーを発表。また、1984年にはエルドラド・クーペをベースにASR社がこのエルドラド・ピアリッツ・コンバーチブルを発表し、1950年代栄華を極めた往年の名車が再び名実ともに世に出ることとなりました。
1960年代のアメリカの青春映画を思い出させる車種です。今では、堂々たるクラシックカーの代名詞と言っても過言ではないでしょう。アメリカのハイウェイ「ルート66」が目に浮かびます。この車も鹿児島からやってきました。宮崎ではなかなかこの種の車は見れません。
この車は、Chevorolet Impala Convertible 5706cc 315HP(シボレー インパラ コンバーチブル)と言う車で1958年式です。走っていると、フロントエンジンから白い煙が出るようなシーンが映画では、良く出る気がします。これも50〜60年代にかけての代表的なクラシックカーです。
インパラとは、アフリカのサバンナなどに生息する非常に跳躍力のある角を持ったウシ科の動物のことで、鹿に良く似ています。宮崎の堀切峠辺りで似合いそうな車です。
ところで車のインパラですが、1957年全く新しいモデルとして登場しました。発売当初から最高級の人気車種として注目を一心に浴びました。シボレーはこれに合わせてリヤーサスペンションをリーフからコイルに変更するなど、より乗り心地を快適にし、特にインパラはGMの最高級車キャデラックに最も似たフロントグリルやクローム類を多用し、豪華モデルに仕上げました。このことで名声を得、インパラの名を定着させることに成功しました。
ここにあるコンバーチブルは、インパラの中でも生産台数が極めて少なく、価格も最高級の部類です。
富山市に本社を置く光岡自動車。クラシックカーではありませんが、一般に道路を走っている画一的な車には飽き足らず、手作りで自動車」作りを手掛けたマニア垂涎の車が、日本の公道を走っています。

「ミツオカ」で有名なブランドですが、宮崎に1台か2台あるかでしょう。同社は他にもかなりの車を作っているはずですが、貧乏県宮崎ではほとんど見かけません。

この車もミツオカ産の車ですが、これは地元宮崎の人が所有している車の1台で、宮崎市でたまに見かけます。もちろん、クラシクカーではありません。
このクラシックカーフェスティバルに、花を添えるために参加されたと聞いています。
車種名はミツオカZERO01クラシックタイプFと言います。平成9年の生産です。

参考までにミツオカ自動車について触れておきます。

私たちのオリジナルカー開発の歴史は1982年に発表した「ゼロハンカー・BUBUシャトル」にまでさかのぼります。
「BUBU501・503・504・505-C」と「ゼロハンカーシリーズ」を発表。
1985年の新道路交通法施行によって運転免許証が原付から普通免許へと移行されるのを機にレプリカの開発に着手。

1987年には「BUBUクラシックSSK」を発売しました。
画一化された車に飽き足らず、もっと遊び心にあふれた車、もっと自由で楽しい車、もっと自分を主張できる車、そんな車を作りたいという熱い想いに駆られてスタートしたのが私たち光岡自動車です。

そこには、自動車の創世記にヨーロッパの各地で車作りに夢を描いたコーチビルダーの心意気と共通するものがありました。もともとコーチビルダーとは、四輪馬車を作る工房(または職人)をさす言葉であったようですが、【馬なし馬車】と呼ばれた自動車が誕生すると、コーチビルダーはエンジンや部品などを買ってきて、それで自分の好みや依頼主の注文に応じた車作りをしたといわれています。

今では自動車は大量生産方式が当たり前のこととして受け止められていますが、初めはみんな一台一台手作りだったのです。(以上はミツオカ自動車HPから抜粋)

今回行われたクラシックカーミーティングは、数えて4回目で宮崎県都城市の高城町観音池公園の広大な駐車場を利用して開かれました。会場には所狭しと自慢の車が並べられていました。

中には、クラシックだけに自分の車の改造の歴史を紹介したパネルや、今まで乗ってきた車のなど、今ではほとんど手に入らない車のパーツなどが自分の愛車の前に飾られ、さすが超がつくカーマニア派違うなあと感心させられました。

宮崎県ではほとんど開かれない、このようなクラシックカーのイベントですが、主催者によりますと、4回目の今年は九州一円にも浸透し、お隣の鹿児島はもちろん、遠く福岡、長崎からも多数の車が出品され、その数約100台と、回を追うごとに出品する車の数や訪れる観客がうなぎのぼりに増えています。

特に、訪れる観客の中には、自分の青春と重なる昭和40年から50年代にかけた時期の車が大半で、オーナーと、当時の話しに花が咲いたり、手入れや故障したときの修理など車談義があちこちで行われていました。

因みに訪れた観客も地元宮崎をはじめ、鹿児島や熊本など県外ナンバーの車も多数駐車場に並んでいました。中には、出品資格のあるようなクラシックカーで来場している人もいました。

回を追うごとに盛んになり出展するクラシックカーも100台を越えてきてこのフェスティバルも秋の宮崎の風物詩になっていくことでしょう。

      都城クラシックカーフェスティバルT

上段左から昭和43年式プリンススカイライン4ドア。総和42年頃、実家が診療所をやっていた親友の家にこの車がありましたので、良くドライブに連れて行ってもらい贅沢気分を味わいました。その右となりは、スカイラインHGC-211。3番目は日産セドリック2000SGL-E、昭和53年式です。右端は、当時若者が憧れた昭和47年式のハコスカGTRです。赤のハードトップ、しかもGTRと言えば女の子にもてたでしょうね。
下の段の左端もハコスカでこちらは昭和47年式GTです。このあたりは日産の名車が、ずらりと並んでいます。スカイラインGTRはまさにその象徴。横はスカイラインGTS。いわゆるスカG。この頃は、フォークグループ「バズ」が歌った“愛は風のように”が大ヒット。合わせて発売されたケンメリスカイラインが、時流に乗り、空前の売れ行きを記録しました。右端もスカイラインGTSです。昭和51年から52年にかけてのクルマです。いずれの車もクラシックカーとは思えないピカピカのボディと高性能のエンジンを保っています。結構、今の時代でも宮崎のような田舎でも見かけますね。

1972年──4代目「ケンとメリーのスカイライン」キャンペーンがメディアから発信された。ロマンチックでヒューマンなストーリーに、若者から年配者まで幅広い年齢層の共感が集まり、キャンペーン用のTシャツやステッカーが飛ぶように無くなった。「ケン・メリ」の愛称で親しまれたこの車もクラシックカーの範疇に入るとは、時代の流れの速さを感じずにはいられない。いまでも、宮崎の街中ですれ違ってもすんなり溶け込み、何の違和感も感じない。それだけすぐれたデザインの車が35年も前に創られていたことに驚きを感じ得ない。

グランドツーリングのイメージを謳ったCMソング「ケンとメリー〜愛と風のように〜」も異例のヒットを記録する。

一種の社会現象を巻き起こすほど強烈なインパクトを与えたキャンペーンは、日常のすぐ隣にある非日常の世界をすべての人に手渡してくれた。

スポーツセダンとしての名声を不動のものとしたケンとメリーのスカイラインは、累計販売台数も歴代最高の64万台を達成するベストセラーとなり、日本の道には愛するメリーを乗せて走るケン達のスカイラインが輝いていた。

4ドアセダン、2ドアハードトップと、いずれも当時としては画期的なデザインで美しい流線形のボディは、現在の車と比較しても何の遜色もありません。 (日産自動車のホームページから)

      都城クラシックカーフェスティバルU

左上は、日産グロリア2000スーパーデラックスです。昭和43年式とかなり年数がたっていますが、外観も室内もきれいにしてあります。それこそクラシックカーそのものと言った感じですが、もちろんエンジンの手入れが一番だそうです。フォルクスワーゲンの人気は相変わらず。

「カブト虫」の愛称で今回も何台も参加していました。右端もフォルクスワーゲンです。あまり詳しく聞けませんでしたが、かなりさび付いていました。
オーナーに聞いたら、なんと今日の朝、納車で延岡から駆けつけたばかりで、これから手入れにはいるとのことでした。クラシックカーにもいろいろあると言うことですね。

次回出品の時は、見違えるほどの車になって戻ってくることでしょう。

下の段に行きますと、左端は出始めの頃の日産フェアレディです。SRL2000で、昭和43年式です。今でも軽く100q/hは出ると話していました。

このフェアレディは、初期の時代フェアレディで同種の車の中でも、一番クラシックカーにふさわしいくるまですね。存在感があります。宮崎でもほとんど見かけません。

隣りは昭和46年式のスカイラインGT2ドアハードトップ、いわゆる「スカG」です。その横は昭和47年式のスカイラインGT、こちらは4ドアです。そして、右端が、日産ローレルです。

ローレルと言えば高級車のイメージがあったのですが、この昭和43年式のモデルは、普通の車のようで派手さがなく目立ちません。しかし、息の長いクルマですね。オーナーの愛情とエンジンの愛称が良かったのでしょう。
こう見てきますと、結構県外車が多いですね。鹿児島、熊本、福岡など。宮崎の車も多数見せていただきました。

      都城クラシックカーフェスティバルV
左上のはフェアレディZ昭和47年式ですが、フロントカバーの「DATSUN」の名が懐かしいですね。

ダットサンと言う響きがクラシックカーを連想させます。まさに太陽そのもののクルマでした。

その隣りもフェアレディZですが、こちらのはニッサン名で型式240です。同じく昭和47年製ですが、今でも古さを感じさせない流線形のボディには憧れたものです。いまでも、宮崎市内で時々見かける車の一つです。

3番目のクルマはプリンスグロリアスーパー6です。昭和39年製造の40年を超えるクラシックカーです。排気量1988t、型式G−76気筒、水冷直60HCエンジンを搭載。購入価格が119万円。

まさに超高級車、当時としては相当大きな家が建つだけの価格です。車体はピッカピカに磨き上げられていてオーナーの愛車に対するこだわりを伺い知ることができます。

右端は、ホンダスポーツS800です。昭和42年式でトヨタスポーツが出るまでは、スポーツ車と言えばこのクルマを指し憧れの的でした。宮崎の街中で時々見かける車種ですね。

スポーツ車の中では、トヨタ2000GTが、幻のクラシックカーとすれば、ホンダS800は、大衆的クラシックカーとでも言えるでしょうか。

下の段に行きますと、これはまた懐かしいスバル360ではありませんか。昭和44年生産ですが、当時の小型車と言えば、キャロル、ホンダN360などと並んで公道の中心車両を占めていました。これもクラシックカーなんですね。なんか信じられない時の速さを実感します。

まだ、4輪にも小型免許がある時代で、学校をサボっては河川敷で練習し、週1回ある免許(小型)試験を宮崎まで受けに行ったものです。

結局、18回目に合格しました。ただ、受験料が500円位だったことから、大した出費にはなりませんでしたが。その隣は、昭和50年式の三菱コルトギャラン2000GLUです。地味な車でしたが、後に世に出たギャランGTOやFTOに繋がっていきます。

黄色の車はニッサンチェリーFUクーペです。昭和49年式ですが、チェリーの思い出はあまりありません。縁がなかったですから。そして、クラウンハードトップSL。

昭和45年生産のスポーティタイプですが、ちょっと重たそうな印象があります。それでも、高価なイメージながら結構人気のある車でした。

     都城クラシックカーフェスティバルW
上の段の左橋は、王道を歩む高級車の代名詞・トヨペットクラウンです。

この車の型は4ドアセダンスーパーデラックス昭和41年製造の車です。40年以上経過していますが、さすがクラウン近寄り難い高級車ですね。クラシックカーの代表でしょう。

表面はピカピカに磨き上げられていて威風堂々としてやはり貫禄があります。画面では見にくくて申し訳ありませんが、フロントの「SUPER DELUXE」の文字と、クラウンの王冠が誇らしげです。

その横には、ニッサンのグロリアスーパー6が展示してありますが、この車も高級車です。しかし、クラウンと並ぶと、やはり違いますね。因みにこのグロリアは昭和39年式とかなり古いんです。もちろんクラシックカーフェスティバルの主役の1台です。

続いて人気車種のブルーバード16003S H510 。.昭和46年式ながらあか抜けした車体のデザインが印象的です。当時は白色の車が多かったですね。このニッサンサニーGSもそうです。

サニーは小型の大衆車の部類に入りますが、白色は車体を大きく見せる効果があります。あんなに
多く世に出て名前も通っているはずなのに見かけませんね。すくなくとも宮崎の街中では。

そういえば私が最初に買った車もニッサンサニーでした。もちろん中古でしたが、クーペを22万円と記憶しています。昭和49年夏、大学を出て初めてのボーナスの時でした。下の段左端は上のブルーバードと型式も製造年も同じものです。

エンジンの中も見せていただきました。まるで新車のエンジンを見るようなサビひとつないエンジンルームです。かなり金と時間をかけているのでしょう。

今の自分の車よりはるかにきれいに整備されています。この点は見習わなければいけないですね。右橋のいすずべレット(懐かしい名前です) 1600セダンには、ターボエンジンが搭載されていました。昭和44年製造の車にターボエンジン、贅沢ですね。 

        
スカイライン伝説       
 
 
   スカイライン=レース神話の方程式は今もこの胸に」
『スカイライン』のネーミングは、モーター・スポーツの発展とともに、その輝きを孤高の存在として高めてきた。そのスピリットは、自らが参戦するレース・カテゴリーをプロダクション・モデルの車名に冠した「S54(1964)」によって知ることができる。
国産車としてはごく希な、レーシング・フィールドと同列で語ることを許された一台。
このクルマにまつわる神話は、ある歴史的瞬間から幕を開ける。
1964年5月3日、第2回日本グランプリが鈴鹿サーキットを舞台に行われた。
スタート直後から式場壮吉が駆るポルシェ904GTSが後続を引き離しにかかるが、7周目のヘアピンで生沢徹のスカイラインGTが抜き去り、8周目までポルシェをリードしたのである。
レース専用に開発された重量650kgのポルシェ904GTSを、量産車をベースにした重量1100kgのスカイラインGTが一瞬とはいえリードしたのだから、驚嘆の一語に尽きる出来事だった。
その後、JAF公認レース49連勝の金字塔を打ち立て、『スカイライン伝説』として人々に語られることになる。
スカイラインのレーシング・フィールドは国内だけに止まらない。
初参戦ながらグループNクラスで優勝した1991年のニュルブルクリンク24時間耐久レースをはじめ、同年のスパ・フランコルシャン24時間耐久レースにもエントリーを果たす。
グループA総合優勝、N1クラス優勝の結果を残して。
さらに、1995年、1996年と、世界の名だたるスポーツカー、GTカーが競うル・マン24時間耐久レースに挑む。
ある者は「レース距離300kmのスプリント・レースを20回も走るようなものだ」と話し、またある者は「魔物と女神の両方を見ることのできる世界で一番長い日」と語った。
フランス、サルテサーキット。1周13.6km 。平均速度200km/hオーバー。
総走行距離4000kmを越える24時間の死闘の果てに、1995年は日本車最高位の総合15位を、1996年は2カーエントリーの1台が総合10位を獲得した。
スカイラインは、その時代の最先端テクノロジーとレースで蓄積されたノウハウを惜しげもなく投入し続けてきた。だからこそ、その他のファミリーセダンとは異なり、憧れや夢を語れるクルマとして存在し続けている。
「スカイライン=レース神話」の方程式は、いまも人々の胸に熱く輝いている。

       
    愛のスカイライン
3代目スカイライン 1968年7月〜1972年9月
1968年──3代目スカイラインは、ファミリーユースとスポーツ性を
両立させるという開発コンセプトをさらに昇華させ、
より快適なグランツーリスモとして成長を遂げた。
テレビコマーシャルでは、『愛のスカイライン』のメッセージで、
若いカップルが遠くへ旅に出たストーリーを描き、
パートナーとドライブを楽しむクルマ、というイメージを定着させる。
バリエーションも1500、1800、2000、ハードトップと多様になり、
ユーザーそれぞれが手の届くストーリーがそこには用意されてあった。
郊外へ向かう高速道路では、楽しげなカップルを乗せて走るスカイラインに
多くの視線が注がれた。
国産1500ccクラス初のディスクブレーキを採用したのもこのモデルで、
シャシーのグリス・アップ不要距離は10万kmまで伸びていた。
ボクシーになったスタイリングに合わせて、『ハコスカ』の愛称も誕生した。
         ケンとメリーのスカイライン 
4代目ケンとメリーのスカイライン 1972年9月〜1977年8月
1972年──4代目「ケンとメリーのスカイライン」キャンペーンがメディアから発信された。
ロマンチックでヒューマンなストーリーに、若者から年配者まで幅広い年齢層の共感が集まり、キャンペーン用のTシャツやステッカーが飛ぶように無くなった。グランドツーリングのイメージを謳ったCMソング
「ケンとメリー〜愛と風のように〜」も異例のヒットを記録する。
一種の社会現象を巻き起こすほど強烈なインパクトを与えたキャンペーンは、日常のすぐ隣にある非日常の世界をすべての人に手渡してくれた。
スポーツセダンとしての名声を不動のものとしたケンとメリーのスカイラインは、累計販売台数も歴代最高の64万台を達成するベストセラーとなり、日本の道には愛するメリーを乗せて走るケン達のスカイラインが輝いていた。                 (NISSAN MUSEUMから引用)

   都城クラシックカーフェスティバルX
スズキフロンテクーペとは、また懐かしい車です。この車もクラシックカーですか。そういえば年式が昭和47年ですから。しかし、出足のいい車だったことを覚えています。知人から借りて乗りましたが、まだ免許取立てとは言え、軽自動車と、たかをくくってアクセル操作を簡単に考えていたら、いきなり加速、そのまま宮崎の田舎の田んぼ道から落ちたことがあります。

となりが、三菱のミニカデラックス昭和44年式です。デラックスと言う割りにはエンジンルームは、至って簡単な作り。少々びっくりしました。

右端は2台紹介します。カメラアングルが悪く見にくいですが、手前は三菱ギャランGTOの昭和50年式で、向こう側が三菱コルトギャランGSU昭和49年式です。性能はともかくとして(乗ったことがなかったので)ギャランGTOは、デザインが好きな車のひとつでした。 

下の行の左は、セリカLB1600の昭和50年式です。次の赤色の車はセリカの1600GT-RALLYです。少し年式が新しくなって昭和55年の製造です。ぎりぎりクラシックカーでしょうか。

その横の赤色の車は、ニッサンサニーB1100G]で昭和47年産まれです。黄色のスポーツカーは、ダットサン240Zです。昭和47年式ですが、どうもニッサンとダットサンの区別がはっきりしません。確かに昔はダットサンのほうが多かった気がします。


   都城クラシックカーフェスティバルY
昭和51年式の白のフェアレディZGS31、かっこ良かったですね。今見ても、とてもクラシックカーとは思えません。

当時はまだ、就職して間がなかったので通り過ぎるのをながめていただけでしたが。

隣の大衆車サニーは、最初に買った車で思い出がたくさんあります。

このサニー、確か登場した当時名前は公募だったと記憶しています。それもテレビで派手派手に演出して当選者に大金か当の車をプレゼント。そんな記憶が残っています。

スカイラインGTRまぶしいですね。加速の良さスタイルすべてに隣のハコスカ同様、若者の心を捉えて離しませんでした。いまでも十分に通用するクラシックカーの一つです。

そして、下段のセリカLBは少し遅れて登場しましたが、1600と1800のGT、LT、ET、STの4種がありました。それぞれに内装、搭載エンジンが違いましたが、私が乗っていたのは一番安いSTでした。

ナンバープレートに2が4つ並んでいたものですから、当時は珍しがられたものです。

3番目は2000GTです。足が短いのに運転席の座席を一番後ろまで下げて、シートを倒して運転するのが、当時のかっこよい乗り方でした。

しかし、右端は、これは一体何と言う感じです。隣のコックピットと大違いじゃありませんか。そうですこれは、ダイハツミゼット箱バンの運転席なのです。
いかにも窮屈そうですね。しかし、今では貴重なクラシックカーなのです。

   都城クラシックカーフェスティバルZ
上の左は一段とグレードアップしたニッサンフェアレディ280Zです。
流線形の美しさが一段と映えて見えます。

もちろん性能もエンジンが大きくなり出足、加速ともに超が付く日本を代表するスポーツカーに成長しました。このモデルは昭和52年式です。

その右は同じみのサニーですが、バンタイプです。
昭和53年に作られています。当時は何と言うことはなかった普通のバンですがこうして長年のときを経て見るとまた感慨が湧いてきます。

そしてフォルクスワーゲンの名車、カルマンギアです。クラシックカーの中ではトップランクに挙げられるこの車の製造は、昭和32年この展示会の中では、横綱クラスの一級車です。

赤色の車は大衆車トヨタスターレットSi(KP61)です。
まだ昭和58年と、この中に入るとクラシックカーとは言えないかも。

これも普通に公道を走っていてなんの見栄えもしません。
なぜならいまでも宮崎の街中で時折見かけるからです。

下の段は、おっとこれは珍しい。三輪車です。
ダイハツの昭和43年式のミゼットです。ハンドルが懐かしいですね。
いわゆるバイクハンドルです。これほどクラシックカーの冠の似合う車はないですね。今の時代、こんなハンドルどこを探してもありません。

そして、その横が、同じくダイハツのミゼット箱バンです。
運転席は先ほど紹介したヤツです。

右端の運転席は、多分スカイライン200GTXのものだと思います。さすがにあか抜けしていますね。
これまたかわいい車ですね。
当時の主流だった軽4輪車のなかでも古い部類に入る車です。

マツダのR360クーペ、このあと兄弟にキャロルが出てきます。
その横はパブリカ800です。昭和43年とかなり古い車です。

忘れていました前のマツダクーペ4は昭和36年式です。
ここまで手入れされて走っているのですから立派です。

そしてDATSUNの文字がきらりと光るフェアレディ2000昭和43年製造のクラシッカーです。
右端はおなじみのハコスカ2000GTX昭和51年式です。
左端は、マツダが誇る代表的スポーツカーコスモスポーツです。この車は昭和46年式の車で当時としては、まるで宇宙人、未来の車の感覚で見ていました。

いまでも、その当時そのままに磨きのかかった外観、内装は、オーナーの車への愛情」を感じます。宮崎ではとんと見たことがありません。ここで遭えて感激です。

その隣はニッサンフェアディZL2/2です。やはり、人気車種このクラシックカーフェスタでは、フェアレディ、スカイライン、セリカなど当時の人気車種が目に付きます。

そう言えば、昭和46年当時確か、マツダがRX7を出したはずなんですが、今回は出展がないようです。

そんな人気車車種に交じって登場願ったのが、次の三菱ミニキャブです。昭和49年製造ですが、整備が十分行き渡っています。

隣のホンダZ360GSSには憧れましたね。フロントカバーが空いていたので前から写せませんでしたが、当時の軽4輪としては、画期的なフロントスタイルと広いリヤウインドウなど、デザイン性に富んだ車でした。

その頃ホンダのN360の中古車に乗っていましたが、学生の身分ではホンダZには手が出ませんでした。

まだまだ、書き足りませんが、この宮崎・都城のクラシックカーフェスティバルは、今回がまだまだ4回目。それでも主催者によると、年を追って参加する車の数が飛躍的に伸びているそうです。

それとともに、見物に訪れる観客の数も5万人を数えるほどになっています。
いろいろ探してみてもこれほど大規模なクラシックカーのフェスティバルの開催をほとんど見かけません。大抵は10数台で街中をパレードする程度です。

福岡、鹿児島、熊本などからの参加車が多いのも、こうした催しがほとんどないからだと思います。

海外の年代ものを集めたクラシックカーフェスタやレースはたまに見かけますが、身近でオーナーと車談義に花を咲かせられるのもこのフェスタの特徴。次回以降もますます繁栄していきそうです。
        
その他のクラシックカー
コスモスポーツ1967年に、東洋工業から新しく登場したロータリエンジンを搭載したコスモスポーツは、その流麗なスタイルから発表とともに世間の耳目を広く集めました。また、レシプロエンジンにない抜群の加速性能を備えたこの車は、当時夢のスポーツカーとも言われました。 ロータリエンジン搭載の市販車としては、西ドイツの自動車メーカーNSUスパイダーに続いて2番目に世に出し、2ロータ式では世界初の車です。
しかし、完成までにはさまざまな困難が待ち受けていました。
昭和34年(1959年)、西ドイツ(当時)のNSU社が"フェリクス・ヴァンケルと共にロータリーエンジンを試験開発したと発表しました。国内では、昭和年1965年の乗用車の輸入自由化に向け、通産省主導による自動車業界再編が噂されていました。後発の東洋工業はその波に飲み込まれ、統合・合併の危機が迫っていました。そこで窮余の策として、ロータリーエンジンを開発すべく、NSU社と提携し、開発に乗り出すことになりましたが、後発と弱小メーカー故、相手側の一方的な条件ながら仮調印を余儀なくされてのスタートでした。ところが、相手側に100%譲っての契約ながら、NSU社から送られてきた試作エンジンは、とんでもない欠陥を残したままの未完成品ともいうべきものでした。アイドリング時の激しい振動、おびただしい白煙、オイルの過大な消費などによって40時間でエンジンが停止。ロータリーエンジンは試験開発には成功したものの、とても実用化できるレベルのものではなかったのです。
東洋工業は、NSU社との提携を断念、自社で次世代エンジンとされたロータリーエンジンの開発・実用化という社運を賭けた挑戦を行うこととなったのです。ロータリーエンジン研究部(平均年齢25歳。)が、その任にあたることになりました。
しかし、開発は困難を極め、業界内ではロータリーエンジンに対する様々な批判・悪評が飛び交い、身内の社内にすら批判の声は広がりました。それでも途方もない時間と労力、資金を費やして開発は続けられ、昭和38年(1963年)には第10回全日本自動車ショーに400×1ローター・400×2ローターの試作エンジンを展示。翌昭和39年(1964年)にはコスモスポーツのプロトタイプを展示するに至りました。
昭和40年(1965年)、昭和41年(1966年)と続けて展示され、その間、試作車による10万kmに及ぶ連続耐久テストを含む、総距離300万kmにも達する走行テストが行われました。テストは各地のディーラーに委託されたコスモスポーツ60台により、1年間かけて実施されました。
そして、昭和42年(1967年)5月30日、満を持してついに発売となったのです。昭和36年(1961年)1月のロータリーエンジン試作1号機から、6年の歳月が流れていました。
ロータリーエンジンの走りはまさに異次元ともいうべきものでした。当時、ほとんどのレシプロ国産車は4000rpmを過ぎたあたりから騒音・振動がひどくなり、100km/hを超える高速走行では会話すら困難となり、怒鳴り合うようにしなければならないこともままあリました。しかし、ロータリーエンジンはレッドゾーンの7000rpmまで静かに、スムーズに吹けあがり、さらにその上までも回るかのように思われました。コスモスポーツの加速フィーリングは「走るというより飛ぶ感じ」と表現され、「モーターのようだ」と評されました。
価格は148万円でフェアレディ2000の88万円、スカイライン2000GT-Bの94万円と比べても高価で、スポーツカーというより二人の乗員のための高級グラン・ツーリスモの趣きでした。当時の大卒初任給を基準に現在の価格に換算すると、1000万円を優に超える。東洋工業のイメージリーダーであり、「夢の車」であったのです。 (マツダ、ウィキペディアから)
トヨタ2000GT1963年、日本の本格的スポーツカーとして、ダットサンフェアレディSP310が、世に出て人気を博すると、大衆向けのライトウェイトスポーツカーが次々と開発されていきました。1964年にはホンダがS500を発表、このタイプはS600を経てS800の爆発的な人気に繋がって行きました。トヨタも1962年発表したプロトタイプのパブリカスポーツを進化させて、1965年トヨタ800UP15型を発売。ダイハツはコンパーノ、いすゞはべレット1600GTなど各メーカーが開発にしのぎを削った結果、性能は格段に向上、国際レーシングカーレースでも好成績を収めるようになってきました。その後、ニッサンがプリンススカイラインを、トヨタもコロナハードトップの前身カーであるトヨタ1600GTRを出し、大衆車のスポーティ化傾向はますます進んで行きました。当時はまだオイルショックや各種規制など考えられなかった時代で、競い合った日本の各メーカーの技術力は、素晴らしく、わずか数年で世界的水準にまで達する目覚ましいものであり、信頼性の高い国産スポーツカーが次々と完成しました。トヨタ2000GTが誕生したのはこの頃です。1965年満を持して登場したわが国においてもかつてない高性能なグランツーリスモ・トヨタスポーツ2000GTは、その流れるようなスタイル、6気筒ツインカムの高性能のエンジンを搭載し、谷田部の超高速耐久トライアル走行テストで3つの世界記録と13の国際新記録を樹立。2000cc直6ツインカム150PSでマキシマム220km/hというそのスッペクは、トヨタの技術の象徴として最高の知恵を結集して、しかもハンドメイドの量産を考えず世界水準の高性能車をつくり上げました。市街地の低速走行も、ハイウェイでの高速走行も、快適な乗心地を確保し、極めて優れたスタイルを持ったトヨタ2000GTは、たちまち若者の心を捉えました。このトヨタ2000GTは、1965年のモーターショーでプロトタイプがデビュー。走行試験を繰り返した後、1967年から1970年までのわずか3年間、市販されました。その数国内外合わせてわずか320台。ほかにテスト車などが20台ほど。当時の2000GTの価格は238万円で、トヨタの高級車であるクラウンが2台買える程に高価でした。今のお金に換算すると、1,500万円から2,000万円程度の感覚にも相当する、一般の人々にとっては想像を絶する超高額車だったと言えます。それでも生産に手間がかかり過ぎてコスト面で引き合わない価格設定で、全生産期間を通じて常に赤字計上での販売でした。トヨタにとっては「高価な広告費」とも言うべきものと言えましょう。生産終了後、希少価値もあり、2000GTの存在は日本国内外で後年まで伝説的に語られるようになりました。日本車における絶版車の人気車種として筆頭に上げられる車種の一つになり、中古車市場では多くの場合プレミア価格が付いて、良好な状態の2000GTは1,000万円を下らない価格で取引される事も多いと言われています。まさに日本車の歴史上、一種の記念碑と言える伝説的な名車と言うことができます。 (参考文献:トヨタ博物館、ウィキペディア)
学生時代(高校)は、まだ軽免許があった時代。上のスバル360や右のホンダN360が自動車練習場で良く使われていました。ダルマギヤでエンストばかりする練習車でした。練習場と言っても、河川敷の舗装もされていないガタガタ道で1時間の練習料金が200円と覚えています。前にも書きましたが、週1回警察の公認試験場で技能試験だけやっていました。練習が練習だけに、自己流で途中でエンストしたり、坂道発進でバックしたりと、散々で結局合格するまで18回もかかってしまいました。
その試験に使われていた車が、スバル360とマツダキャロルでなぜかホンダの車はありませんでした。考えてみれば試験車は2台だけでしたので、ホンダ車があるはずもありませんが。試験会場に行って試験車が発表されると言うやりかたでマツダキャロルに決まると喜んでいました。なぜならスバルは試験車ながら良くエンストしていましたから。
クラシッカーと言っても、はっきりした定義は、分かりません。人によってあるいは団体によって、年代が別れています。テレビなどで外国のクラシックカーを紹介する機会がありますが、時速20〜30kmで優雅に走っている、「これぞクラシックカー」と言われるレースがが、方々で開催され山高帽にダテメガネの紳士が、楽しそうにレースに参加しているのを見かけます。車の年代も20世紀初頭から第2次世界大戦頃の車が、颯爽と走っている姿から歴史と伝統を感じます。特にイギリスはその点からするとクラシックカーの愛好家が最も多い国と言えましょう。
日本はと言うと、ほぼ1975年以前の車、または1980年以前の車がクラシックカーの範疇に入りそうです。国産車の場合はヒストリックカーと呼ぶこともあります。ですから上のコルベットスティングレーはその点からすると、クラシックカーと言うよりもフェラーリ、ポルシェ、ランボルギーニなどと並んで、スーパーカーの部類に入ると思います。もちろんコルベット自体は1954年から開発を手掛けていて、年式の古いものはクラシックカーとして、出展される対象になっています。最初の型式から車体のデザインは他を圧倒していますから。その証拠にプラモデルで、スティングレーは常に売れ行き上位に顔を連ねています。2番目は、先に紹介したシボレー正式には、Chevorolet Impala Convertibleの5706ccです。因みにスティングレーも排気量が5700ccもあります。現在の原油高騰を考えると、維持も大変ではないでしょうか。3番目はトヨタ2000GTのエンジン部分です。6気筒ツインカムの超高性能エンジンは、当時どこのメーカーもノドから手が出るほど欲しかったことでしょう。右端はダイハツの3輪トラックです。昭和30年代、私がまだ小さかった頃、精米所が所有していて、お客さんのところへ精米した米を運ぶ車の後ろにぶら下がって遊んでいました。米を山盛積むと自転車並のスピードしかでませんから。運転手のおじさんには、「危ないじゃねえか」と、よく怒られたことを覚えています。
宮崎の県鳥コシジロヤマドリ

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