★宮崎の祭り★

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宮崎の祭り★神代の昔から

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2007延岡お大師祭り

 
宮崎の祭りの規模は、総じて大きくありません。 宮崎の祭りの特徴は農魚村などと深く結びついているところにあります。宮崎県には、宮崎神宮や太平洋の荒波の侵食によりできた深い洞窟状の鵜戸神宮をはじめ、県内至るところにたくさんの神社があります。

それら神社の多さに比例して春秋を中心に、宮崎県の各地で祭りが行われます。
その多くは五穀豊穣を祈ったり豊作に感謝するなど農村集落と深く結びついています。
その他、盆を中心に盆踊りがメインになる夏祭りも盛んに行われます。

しかしながら、東北の3大祭りや阿波踊り、博多どんたく、京都葵祭り、時代祭り、札幌雪祭りなどなど、「宮崎と言えば○○祭り」と言えるような全国的に知れ渡っている祭りはありません。

ここでは宮崎県で行われている主な祭りを紹介します。
   

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宮 崎 神 宮 大 祭
2007年10月27日(土)〜28日(日)
                  
                   宮崎神宮

 宮崎神宮(みやざきじんぐう)は、宮崎県宮崎市の北部地区に位置する閑静な住宅地にある
神社です。「神武さま」または「神武さん」と呼ばれ親しまれています。江戸の末期までは宮崎神社、宮崎宮などと呼ばれていました。。

神武天皇の孫で、筑紫を開拓した健磐龍命が創建したと伝えられていて、かなり古い歴史を持ちますが、正確な造営時期・由緒は不明です。文献に登場する最も古い記録は、建久8年(1197年)に地元の地頭の土持太郎信綱が現在地に社殿を造営したという史実が残っています。このころには、神武天皇が東征する前に宮を置いていた高千穂宮が宮崎の神宮・下北方一帯であるという説が定着していました。近くには皇居跡と伝えられる皇宮屋(こぐや)もあります。神武天皇に対する崇敬により、歴代の領主から深い崇敬を集めています。明治維新により、神武天皇の最初の宮の地として重視されるようになり、1898年には高木兼寛らを中心に神武天皇御降誕大祭会が組織され、全国から多くの寄付を集め、現在の本格的な社殿が整備され、宮崎神宮と改称されました。


 先週の飫肥城下町といい、今週の宮崎神宮大祭といい、どちらも宮崎を代表する祭りです。
 しかし、私、恥ずかしながら宮崎県に長らく住んでいながら、どちらの祭りも今年はじめて見学しました。なぜなら、折角の日曜日に人ごみの中で祭りを見物するより、大海原で大自然を相手に糸を垂れているかグランドで白球を追いかけていた方が、はるかに私にとって健康的で楽しい時間でした。海は今、秋のシーズンを迎え活気付いています。正直な所、祭り見物など眼中になかったと言うのが本音です。それが、何故こんなに祭りや花々を追い出したかと言いますと、やっぱりホームページを作り始めたからです。まだ、1年と少しですが、祭りもそうですが、今まで全く見えていなかったいろいろなものが見えてきました。つまり、視野がひろがりましたね。私自身にとって非常に大きなことだと思っています。はじめての経験が非常に新鮮で、時にはカルチャーショックも味わっています。

 
 祭り初日の風景。スタート地点の宮崎神宮から約1km少しの橘通リ5丁目付近です。祭り初日の土曜日の午後ですが、意外にも宮崎神宮通りや宮崎市の中心部橘通り3丁目付近と比べて見物客はまばら。
 すぐ側に、横断歩道橋があり格好の撮影ポイントと思って上から待っていたところ、御神体を上から撮るのはご法度とのこと。仕方なく沿道から撮影しました。それでも前へ前へと争うこともなくのんびりと、撮影することができました。
 おっと、品の良さそうなご夫婦が歩いてきました。近くに来ましたので見ると、あの有名な中山恭子・内閣総理大臣補佐官ではありませんか。その隣りはご主人の元文部科学大臣の中山 成彬 氏です。
 か細い声にキャシャな体形、歳も昭和15年生だし、弱々しい印象がありましたが、なかなかの健脚です。
神武さまにはこう言う人が参加するのかと、はじめての見物で驚きました。一説には、最終日は東国原知事も歩くと言う噂がありましたが、実現はしませんでした。
 ところが、沿道の見物風景と同様にあまりにのんびりしていてカメラの充電を怠っていました。気づいたのは後の祭りです。結局、初日、撮影できた写真はこれだけ。「なんと愚かなことを」・・・・です。

 仕方なく最終日も撮ることに決めました。
 宮崎神宮大祭は明治9年(1876年)に始まったと言う説や、宮崎市高岡町が生んだ世界的に有名な医師で、成医会講習所(東京慈恵会医科大学の前身)や有志共立東京病院(東京慈恵会病院の前身)などを設立、「ビタミンの父」と言われた高木兼寛が、幹事長となって、明治40年(1907年)に現在の宮崎神宮を造営した時の奉告祭が、現在の神武大祭の起源と言う説もあります。いずれにせよ宮崎にとっては貴重な文化的財産に違いありません。。
 この神宮大祭の発展を願って、平成15年から夕方から夜にかけて高千穂通りを歩行者天国にして「神武さま広場」として、郷土芸能や神楽等の伝統文化の披露やマグロの解体実演等など盛りだくさんのイベントが開催されています。

 宮崎神宮大祭は、一般に地元の人からは、「神武さま」「神武さん」と呼ばれ親しまれています。この祭りがくると寒くなったり雨が降ったりと言うジンクスがありました。例年10月下旬の後の土日の2日間に渡って行われ、御神幸行列と鎌倉時代の装束を身にまとった武士やお公家さん、「ミスシャンシャン馬」、神武天皇の歴史背景を考慮・参考にした「おきよ丸」に象徴される「よみがえる古代・神々」の行列で行われます。
神武さまは年に一度宮崎神宮にお参りできない遠くの人のところへ出かけて行かれる神事から始まった五穀豊穣を祝うお祭りです。
 ひと昔前までは、「博多どんたく」、「唐津おくんち」とともに九州3大祭りのひとつと言われ、宮崎周辺の町や村からたくさんの見物客が押し寄せました。しかし、今年はじめて観ましたが、娯楽が多様化した現代のテンポや変わり映えしない祭りの形態からは、マンネリの感は否めない印象を受けました。また、神様の行列なので仕方ないのかも知れませんが、お触れ(案内放送)が少なく、折角の時代絵巻も十分理解されずに行列が行き過ぎた感はぬぐえません。
 折角の機会でしたので、今年の御旅所(神様が一泊される所)である瀬頭から、宮崎神宮まで約5km弱の道のりを行列と平行して歩きました。
で、パレードの区間を通して感じたことを率直に書こうと思います。気づいたのが両側通行規制され広々とした道路でさえ、行列がつかえて立ち往生する場面にしばしば出くわしたことです。さすがに、橘通リ3丁目の交差点付近は見物人が一番多く、行列も整然とし、各団体の演舞もみごとなものでしたが、江平を過ぎ神宮通リに入るころから、行列が止まったままで沿道の客との立ち話しや喫煙、座り込みなど緊張感まるでなしと言う姿を観るにつけ「何と言う祭りだろう。」と、言う怒りにも似た感情が腹の中で渦巻いていました。誘導がまずいのか、それが限界なのか、いつも見ていないので分かりませんが、しまりのない姿をさらすのは宮崎最大の祭りと言うにはお粗末過ぎると正直思いました。
 ここ1年宮崎県内のいろいろな祭りを観てきました。前週の飫肥城下祭りでは、一番最後の演舞場では、どの団体も汗びっしょりになりながら日頃の練習の成果を披露した清々しい顔が印象的でした。夏のひょっとこ踊りでも最後はきちんとまとまって一斉にフィナーレを迎えました。何故、長い歴史と伝統のある宮崎神宮大祭の最後の部分が、あのように締りのない形で終わるのか不思議でなりません。終わりがすべてのイベントの成否を支配します。
 祭りは、2日間に渡って行われます。宮崎神宮から出発した御神幸行列は、獅子舞を先頭に、鎌倉時代の装束や戦(いくさ)用の鎧兜(よろいかぶと)に身を包んで馬に乗った当時の武士やお公家さんが先陣を固め、その後を宮崎神宮の奉物を運ぶ神官が続き、宮崎神宮のご神体の神輿が、屈強な担ぎ手によって厳かに進みます。このご神体を祀る神輿、御鳳輦(ごほうれん)と言うそうですが、つまり手や肩で担いでいくもののことですね。頑丈な造りで見ていてもいかにも重そうです。
この御神幸行列は、一の鳥居から交通規制が敷かれた広々とした4車線の国道10号線を中心部に向かって南下、お旅所(神様のお宿)で一晩を過ごし、翌日同じ行程を引き返します。お旅所は隔年ごとに変わり、今年は瀬頭のお旅所に泊まられました。ここまで往復約9qは、行列を彩る4歳前後から小学校低学年の稚児たちにとってはかなりハードな距離でしょう。パレードは、市役所前、デパート前、江平5差路などのスポットで、獅子舞や民舞隊が出し物を披露します。特に神輿は、ただでさえ重いのに、広々した交差点を練り歩き、いや走り回るのですから、相当の体力を要します。一回り、ふた回り、三回りすると、汗びっしょりで担ぎ手の苦痛に顔をゆがめた光景は気の毒なほどでした。

 一通り、宮崎神宮関係の行列が過ぎ行くと、この祭りのハイライト・晴れ着を身にまとったミス・シャンシャン馬の登場です。シャンシャン馬の由来については、このページの中ほどで説明しています。宮崎市内の企業6社から選ばれた綺麗どころ6名が、鈴の音とともに馬の背に乗り愛敬を振りまきますと、沿道から、「うわぁキレイ!」と言う感嘆の声とともに、なんとも言えないため息が漏れ聞こえます。
行列はさらに続き、今年はじめて都城市山之口町的野正八幡宮から県の無形文化財に指定されている弥五郎どんが参加、祭りに華を添えました。『弥五郎どんゆかりのものにふれると、一年を無病息災で過ごせる』と言う言い伝えがあり、江平5差路手前では、前がつかえて立ち往生している弥五郎どんをたくさんの人々が触れていました。この弥五郎どんは、南九州で3ヶ所にあり、ひとつは山之口町、ふたつ目は日南市飫肥の田之上八幡神社の10mはあろうかと言う巨大な弥五郎様、そして鹿児島県大隅町岩川八幡神社の3ヶ所で見ることができます。いずれも養老4(720)年に起った隼人の乱の時の隼人族の首長であった人物で、隼人族の怨霊を恐れ、石清水八幡で放生会を行なわせその際に隼人族の首長の大きな人形を造ったのが起源と言われています。

 ご神体を上から見下ろすのはご法度でしたが、上の写真のようにご神体の下をくぐるのは縁起がいいとされ、2日間に渡り長い道のりを歩き終えたお稚児さんが、終着の宮崎神宮前で神輿をくぐっていました。私も、たまたま宮崎大宮高校前で、閊(つか)えて身動きがとれないご神体に、宮崎神宮の神官から許可が出てご神体の下をくぐらせてもらう良い経験をしました。
 宮崎は神話と伝説の国、神代の話しには、事欠きません。上の船は、おきよ丸と言って古代の船を再現したものです。宮崎神宮大祭には欠かせない出し物のひとつです。その他、祭りには県内外各地から演舞隊が参加、盛り上げにひと役買っていました。初日の人出が69000人、2日目の日曜日は、ちょっと見逃しましたが例年、20万人以上の人々が昼間の御神幸行列や夜の歩行者天国(神武さま広場)に繰り出しました。こうして、宮崎の秋の風物詩宮崎神宮大祭は、盛況裏に終了。神様も緑深き奥にある宮崎神宮へと戻っていきました。

第30回 飫肥城祭り

飫肥泰平踊今町保存会(鶴組)
飫肥城下祭りの案内 市中パレード参加団体

 ホームページで「宮崎の祭り」をコンテンツに挙げている以上は、「飫肥城下祭り」を紹介しなければ、片手落ちでしょう。と言う訳で2007年10月21日(日)、前日から開催されている宮崎県南部に位置する日南市の飫肥の城下町に行ってきました。
 朝、起きたのが10時でしたので呼び物の飫肥本町通りの市中パレードは大丈夫かなと、心配しましたが、市中パレードも含め何とか祭りの雰囲気だけは写真に収めることができました。
 「飫肥城下祭り」は、今年が30回の節目の年に当たり、飫肥城に通じる大手門通りにはたくさんの露天が並び、足の踏み場もないほど訪れた人々で溢れごった返していました。
 飫肥の町は、江戸時代に飫肥藩伊東家5万1千石の城下町として栄えました。
 飫肥の町が城下町としての形を整えたのは、伊東氏と島津氏の戦いが終息した江戸時代初期で、二代目藩主祐慶の代に町割りが行われたと言われています。
 城下町は城の位置するおよそ60mの小高い丘から南と東に延びています。大手門通りと横馬場通りと称される筋沿いには、比較的位の高い家臣の武家屋敷が並び、町の中心を貫く本町通りが町人町、その南から酒谷川で囲まれた地域には下級武士の屋敷が今も並んでいます。
 戦後は、政治的にも文化的にも県南の中心的な存在でしたが、昭和25年(1950年)、飫肥、吾田、油津、東郷町が合併して誕生した日南市の時代になると、行政の中心が、吾田に移った関係で、飫肥の町は斜陽化が目立ってきました。
鶴組泰平踊1 鶴組泰平踊2 鶴組泰平踊3
鶴組泰平踊4 鶴組泰平踊5 日南弁甲節
 しばらく不遇の時を過ごした飫肥の町が息を吹き返す元になったのが、城下町として残る古い石垣や土塀、白い土壁など町並みに歴史的価値が認められたことによります。
 昭和52年(1977年)には飫肥城址と周辺の町並みが「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。翌53年には、地元で取れる樹齢100年を超える飫肥杉の巨木を材料に大手門が復元され、城下町としての町づくりがスタートしました。
「飫肥城下祭り」もこの頃始まりました。
 地元の人たちも町並み保存のために立ち上がり、日本風建築、軒の高さの制限、派手な広告の禁止、電柱の埋設、昔風の街路灯の設置等など、町並み保存のための景観造りが着々と進みました。
 いまでは、町の中心を通る本町通りも道幅を広げ、白壁や屋根が町人町としての風情を醸し出しています。また南北に足を踏み入れると、上級、下級の武家屋敷が並び、その塀に沿って続く掘割には大小、色とりどりの錦鯉があそび、その様はまさ「九州の小京都」として脚光を浴び近年、多くの人々が訪れ、賑わいを呈しています。
 「飫肥城下祭り」は、今年30回の記念の年を迎え、飫肥を舞台に、20日(土)の前夜祭に引き続き21日(日)の本祭と、2日間に渡って行われました。
 期間中、のろしを揚げる会や祭りを触れて回る早馬、四半的大会(小型の弓矢)、昼市・夜市、野点や地元ラジオの公開録音、歌謡ショーなど盛りだくさんの催しが行われましたが、一番の目玉は2日目に行われる市中パレードです。酒谷川に架かる稲荷下橋から本町橋の間約1kmが交通規制され、約50の団体が、途中のポイントで踊りや演舞を披露しながらのパレードは、さすが城下祭りだけあり、時代絵巻を彷彿とさせます。県の無形文化財に指定されている泰平踊や風田音頭などの優雅な演舞と対照的に現代のテンポの良い踊り、姉妹都市・沖縄那覇からのエイサーなどバラエティに富んだ出し物をミックスし、約3時間見応えのあるパレードが続きました。

幼稚園鼓笛隊 こども泰平踊1 こども泰平踊1
 日南市内の吉野方小学校の鼓笛隊と浄念寺幼稚園のこども泰平踊り。最近の祭りの主役は幼稚園や保育園児。祭りには欠かせない存在になっています。あっちこっちから「かわいい!」と言う声が聞こえていました。ただ、困ったのは子供の親。周囲の迷惑を考えずに道路中央に陣取りカメラやビデオを回す姿は、親ばかそのもの。ほとんどの観客が沿道からカメラを撮ったり見学していましたので、余計にその光景が目に余りました。
みやざきえれこっちゃ隊1 みやざきえれこっちゃ隊2 よさこい串間踊り隊1
よさこい串間踊り隊2
朝霞・風靡1 朝霞・風靡2 寺村剣棒踊り
 祭りが今年30回目と言う記念の年に当っているのか、日南市以外から馳せ参じた団体も目立っていました。一番上は宮崎市から参加の「えれこっちゃ隊」。隣りの赤い衣装は串間市から来たよさこい串間踊り隊と日南学園の仲間たち。中段はえびの市からやってきた演舞連です。3段目の黒装束は、遠く埼玉県の朝霞市から参加、エネルギッシュな演舞で聴衆から万来の拍手を浴びた風の面々です。踊り終えたらみんな汗でびっしょりになっていました。
山内小夜沖縄舞踊 桜エイサー1 桜エイサー2
桜エイサー3 桜エイサー3 沖縄郷土芸能1
 市中パレードのように出し物が多いと、ついついシャッターを切ってしまいメモリーがあっと言う間になくなってしまいます。そこで、撮った写真を見直して気に入らないのは削除するの繰り返しです。そうこうしている内に、お目当てのものを撮り損なうのは毎度のこと。今回は、30回記念と言うことで参加団体が多いのでしょうか。4部構成でも3時間の制限時間内に納まらず、泰平踊りの本町亀組を最後の演舞ポイントで観ることは出来ませんでした。また、姉妹都市の沖縄・那覇市からの参加も目立っていました。優雅で物静かに舞う琉球舞踊はいかにも沖縄的で昔訪れた時のことを思い出しました。実は、私、沖縄のエイサーを観たことがなかったんです。今回はじめて目にしました。結構エネルギッシュで太鼓の迫力も相当なもんですね。踊り手もフレンドリーでいかにも踊りを、祭りを楽しんでいるのがよーく伝わってきました。
沖縄郷土芸能2 沖縄郷土芸能3 笑顔がかわいい
弥五郎さま パレード終了 町人の町本町通り
 飫肥城跡の玄関口大手門は、威厳がありますね。まだ出来てそんなに時間が経っていないのですが、どっしり落ち着いて歴史を感じるのは、建築に使われた樹齢が100年を超えた飫肥杉のせいでしょうか。右下のように普段は、掘割に錦鯉があそび静かな城下町の風情を醸す飫肥の町もこの時期だけは別格。大手門から本町通リまでの大手門通リは人・人・人で溢れていました。新聞によりますと、期間中、56000人が訪れたそうです。身動き出来ないような混雑からすると、予想よりかなり少なく感じます。祭りのメイン会場の規模が小さいからでしょうか。
飫肥城跡大手門1 飫肥城跡大手門2 大手門前通り
大手門通りの賑わい1 大手門通りの賑わい2 鯉が泳ぐ掘割
 今回は、飫肥の城下祭りの風景を撮るのが目的でしたので、飫肥の名所旧跡をじっくり観て回ることができませんでした。飫肥は明治の外交官・小村寿太郎が生まれたところ、伊東家にちなんだ建物や城下の風景など見所もいっぱいです。
 近年、観光客も多く訪れています。九州の小京都と言われる町並みを、時間をみてゆっくり散策してみようと思っています。

第24回 2007日向ひょっとこ夏祭り
 ひょっとこ踊りと言えば、宴会の席などで余興としてよく踊られます。いまでは日本の至る所にこの踊りが浸透しています。しかし、この踊りの発祥の地を知っている人は、ごくわずかです。
 2007年8月4日、「ひょっとこ夏祭り」が行われる宮崎県日向市に行ってきました。
 そう、この踊りの発祥の地はこの日向市なのです。日向市大字塩見の永田地区がその発祥の地であり、その踊りの中心的な人物が眼科医橘公行氏と言われています。時は江戸時代の末期から明治時代の初期に掛けてです。しかしながら、橘医師が数百年前から伝わっていた村々の神楽にヒントを得て現在の踊りにしたという説や、橘医師が学校在学中に古都の神楽を伝えたと言う説などがあり、いつの頃から踊られていたのかはっきりしたことはわかりません。<BR>
昔は、初午の日に踊られていたそうですが、現在は豊作を祝う踊りとして、また商売繁盛の踊りとして、日向市を代表する踊りになっています。
 赤い着物に白い帯、白いフンドシ、腰にはひょうたんをぶら下げ、地下足袋をはいて、マメシボリの手ぬぐいをかぶったキツネ、ヒヨットコそしてオカメが、笛、鐘、太鼓の軽快なリズムにのって、手、足、首と体全体を使ってコミカルに踊る。その踊りはちょっぴりエロチックでユーモアあふれるものです。
同じ顔がないのが、ひょっとこ面のおもしろさです。
日向ひょっとこ夏祭りを盛り上げる、ユニークな表情のお面には、おかめ、ひょっとこ、狐あわせて18種類の型がありますが、顔の描き方や仕上げが微妙に異なるため、同じものはほとんどできないとか。

日向ひょっとこ面の材料は石粉粘土と日向美々津和紙。特に裏地の仕上には日向美々津和紙を幾層にも重ねて丹念に仕上ます。
 今年は、台風5号が前々日、日向市に上陸しましたので、恒例の前夜祭は中止となりました。
8月4日の1日限りの祭りとなりました。日向市役所をメイン会場に、昼前から太鼓演奏や餅まき、ひょっとこ踊り個人戦や、ひょっとこ踊り発祥の地の「橘保存会」有志の模範演技などが行われました。クライマックスは夜の市中パレードです。今年は南は鹿児島から九州各地、北は北海道・帯広まで、はたまた米国、豪、愛、英国、中国などの国際連や地元日向市の踊り子連を含め73連約1500人がパレードに参加しました。
 市役所前広場のメインステージがコースに入っていて、保存会のメンバーなどから踊り子連の審査を受け、市街地6ヶ所に分かれて、18時20分一斉にパレードがスタートしました。
 キツネが連を引っ張り、寄り添うようにオカメが控えめに踊り、その後ろをひょっとこが精力的に、たまに腰をフリフリ踊る姿に、会場や沿道を埋めた観客から笑い声が上がります。市街地の道路が狭いため、目の前を通過していく踊り子連からは熱気が伝わり、休憩地点では、息が上がっている踊り手も。それだけ激しく全身を使った踊りでもあります。
 パレードコースでは、特製のメダルが販売されていて、素晴らしい踊り手に手渡し、メダルの数を最も多く獲得した踊り手が「踊り子大賞」の栄誉に浴します。
 しかし、なんと言っても人気を独占するのは、幼稚園、保育園のちびっ子連です。大人顔負け、お母さんたちが赤面するような腰の動きに沿道から「かわいい」と言う声が掛ります。小学生にもなると、踊りは堂に入ったもので、沿道からため息も漏れてきます。
 こうして、スタートしたそれぞれの連は、約2時間、市中を踊り通しスタート地点でフィ二ッシュを迎えます。

 実は、ひょっとこ夏祭りを生で観るのは今回が初めてです。祭りがどのように行われているのか、どこが会場かさえ全く知りませんでした。ステージも何のためのものなのか、「多分、関連したカラオケ歌合戦やバンドの演奏が行われるのだろう」位しか、想像できませんでした。それにしては、夕方になって踊りのパレードが行われる時間が近づくにつれ、だんだんと観客が増えるのは何なんだろう。赤い衣装の踊り手も数多く集まっています。
答えは、開会式が始まって解けました。パレードは、開会式終了後、市街地各所に踊り手が散って、テンテコテンの笛、太鼓、鐘の音が鳴り出すと同時にスタートと、知りました。そして、ステージは、周回コースの一部で、ここで踊りの審査が行われる寸法です。踊り手にとって、一番の腕の見せ所、観客にとっては居ながらにして、全ての連を観る事が出来る特等席だったのです。

 面をつけると、こんなにも変わるものなのでしょうか。日頃大人しい人が大胆に腰を振っています。踊りもエネルギッシュでユーモアたっぷりです。以前、この祭りを初めて観た国際交流員は、「何だこりゃ」と、へんてこでユニークなこの踊りのとりこになるのに、そう時間はかかりませんでした。今年は、外国連を結成して踊りの輪に加わっています。地元日向市はもとより、九州各地や広島、遠くは北海道・帯広の5人のグループもはるばる祭り参加のため日向までやってきました。それぞれの連の、のぼりを立てて多くの愛好家が本場の祭りに参加しました。愛好家の多くが踊りのユニークさ面白さが受けて各地の催事や祭りなどに引っ張りだこだそうです。地元日向市の保存会の皆さんも日本各地の祭りに招待され喝采を浴びています。
 この伝統的な踊りを、正確に伝承するために発祥の地である日向市大字塩見の永田地区の保存会の皆さんが、模範踊りを披露していましたが、腰をユーモラスに振るのがひょっとこ踊りと勘違いしている向きもあり、手足の動きも人により個性的です。ついでに上で紹介しました写真も順番がバラバラでそれこそ個性的です。
 初めてこの祭りを観て私なりの感想を書かせていただきます。
 これだけ多くの人々の心を一瞬にして掴むひょっとこ踊りですが、今年24回を迎えるにしては、率直に言って祭りの規模が小さいですね。県内でも私みたいに、本場の祭りを観たことがない人々がほとんどです。そんな本場の踊りを観たことがない人が、宴会や催しの席で腰を卑猥に振るのがひょつとこ踊りと勘違いしている、そんな光景は良く見かけます。
 市街地を周回して約2時間でパレードが終了。あとはお茶を濁す程度の表彰式。確かに踊り自体が激しく体力を相当使いますが、踊り手は物足りないはず。ましてや、1年に1度、遠くから本場での踊りを楽しみに、貸し切りバスを仕立てて来た人々が、祭りが終わったらさっさと帰ってしまう光景を見て非常にもったいない気がしました。
 また、パレードのコースが日向市街地独特の狭い路地のような所ばかりで、見物するのも踊るのも混雑至極では興ざめしてしまいます。観ている人が、飛び入りでドンドン参加するぐらいでないと・・・・。しかも、コースの一部は照明もない暗がり。これでは祭りの性格が問われます。動植物は器に比例して大きくもなり、育ちきれないこともあります。今や日本中にその名が轟いているひょっとこ踊り。しかし、日向市がその発祥の地であると知っている人がどれだけいるのか。
 PR不足は明白です。こんな素晴らしい観光資源を1日や2日で終わらせるのは、何度も書きますが非常にもったいないと強く思います。もっと祭りの器を大きくして、たとえば10号線を止めて、仮設のメインスタンドを作り、3日3晩踊り明かすくらいのスケールでやれば、全国からたくさんの人々が日向市にやってくるはずです。
たった1500人程度が踊るくらいで、コースが大混雑するようでは、祭りのイメージは上がりません。


2007 延岡大師祭り
 春の九州3大祭りのひとつと言われている「延岡大師祭り」が、4月13日・14日・15日の3日間、盛大に行われました。別名「雨大師」と言われ、この祭りの期間中、宮崎県地方には暗雲が垂れ込め必ず雨が降ると言うジンクスが定着しています。
 『おだいっさん』の名で延岡市民、宮崎県民はもとより西日本各地から訪れる善男男女に親しまれている延岡の大師のまつりの起源は、意外に古く明治22(1889)年、四国霊場88ケ所を形どった石仏像を延岡とその近郷在住の町村の人たちが、我が村の守護神(大師)として、五穀豊穣、家内安全を祈って奉納し、春を迎えた喜びに合わせて、旧暦の3月21日に参拝したところから盛んになっていったと伝えられています。
 大正7年に大師堂が建立され、さらに昭和32年、信者や近郷近在の有志から広く浄財が寄せられ、「弘法大師銅像」が建立されたことにより、従来の信者に加え、県内一円はもとより、四国・九州各地から「今山大師祭」として参拝客で賑わうようになりましたた。参拝客は、今山の頂上から延岡市内を見下ろして立っている弘法大師像まで長い階段を登り手を合わせます。
この大師像が建立されて今年は丁度50年の節目の年を迎えます。
高さ17m(台座からは11m、足の大きさは62文(1.25m)で重さ11トンの日本一の弘法大師銅像をささえています。
 今年は「ありがとう50年、これから50年、感謝と祈り、お接待!」がテーマ。延岡の各町ごとの大師講は、弘法大師像の小堂を持ち出し、それぞれの地区でお接待をします。。


 弘法大師像がある今山の頂上までの参道は階段や傾斜がきつく、かまり疲れます。途中には広場があり、ここでは私がまだ小学生の頃から大道芸や猿回し、手品などが披露されて大勢の見物客が取り囲み熱心に芸に見入っていたことをおぼえています。この時期に合わせてサーカスも来ていました。
 この「おだいっさん」は、私たちには、大変楽しみなお祭りでした。
ひとつには、「マチ」に行けることです。それもバスに乗って。二つには、お接待所に行けば、赤飯や障子紙に包んだお菓子がもらえます。そして3つ目は見立て細工を見ることが出来ることです。この見立て細工は、「ツクリモン」と言って、あり合わせの品物で腕を競い合いながら見立て細工を作り奉納するものですが、こうして、祭りに彩りを添える形で街中が賑わうようになりました。
 昔は、私の実家の近くの商店にも3ヶ所ほど作られていました。娯楽が少なかった時代のこと、今見たら何と言うことはないのですが、当時はものすごく立派に見え何時間でも見ていたものでした。

 「おだいっさん」を観るのは何時以来でしょうか。地元の高校を卒業してこの時期に延岡にいたことがないので、相当昔、小学校、中学校の時の祭りの記憶しかありません。しかし、他にこれと言った娯楽がなかった時代、人々はこぞって繰り出しこの祭りは本当に盛大でしたね。
特に、今山での大道芸やマジックなど、今で言うパフォーマンスには黒山の人だかりが出来て一番人気がありましたね。
 久しぶりに、観に来てしかもパレードが一番賑やかで盛り上がる祇園町で少ない時間ですが、見物することにしました。それにしても人が異様に多いですね。はじめは歩道辺りでおとなしく待っていた観客でしたが、遠くにパレードの先頭が見えると、だれかれとなく警官の制止を振り切って前へ前へと進み出て一車線占領してしまいました。
 警官もあまりの人の多さにお手上げの様子。折からの市議会選挙中で北上してきた候補者の車も人に囲まれ身動きが取れない状態です。最近の「おだいっさん」は、こんなに人出があるのかとびっくりしていたところ、「知事は何番目じゃろかい」「一番最後じゃが」「こんげ人が多いと見えんが」などなど。知事の話題が頻繁に出ます。近くの人に聞いてみたら、東国原知事がパレードに参加するともこと。
 そうか。道理でこんなにも人が多いのかと納得しました。

 それにしても凄い人気です。後日、新聞を読んだら、パレードの人出は例年の2倍以上だったとのこと。今までの「お大師祭り」で、延岡市長は大名行列で殿様役でパレードに参加していますが、宮崎県知事が「おだいっさん」に参加したことなど聞いたことがありません。しかもパレードに参加するとは。
 「どうせ後の方だろう。時間があるかな、見れるかな」と、考えていると赤いジープの周りに人だかりが出来ているではありませんか。パレードが始まってまだ初めの方です。延岡市の首藤市長と車の上から手を振っています。

 首藤市長が、延岡名産の「空飛ぶ新玉ねぎ」を振っています。たちまち周囲の観客が飛び出し道路は人・人・人・・・。収拾がつかない状態に陥りました。それにしてもこの人気はどうでしょう。「知事〜ちじ〜」「こっち向いて!」「頑張って!」「タノムヨー」などなど、あっちこっちから声が飛んでいました。
 宮崎県知事選挙が終わって、延岡市民の前に姿を現すのははじめてです。また、延岡市民の東国原知事への得票率は50%を超えていました。同知事にとっては格好の御礼の場であったかもしれません。

            (この写真は延岡大師祭協賛会から引用させていただきました)
 
 上の写真は昭和30年頃の「おだいっさん」
の風景です。今と全く変わらない賑やかさです。人々は、今山に登り五穀豊穣と家内安全を祈ったことでしょう。パレードや「おせったい」の心は今も綿々と続いています。
 弘法大師の慈悲そのままに、祭りの伝統が脈々と受け継がれ時代の流れとともに祭りも変容しながら発展を遂げています。そう言えば今年は祭り期間中、雨が降りませんでした。珍しいことです。                       

弘法大師像の元で釈文を唱える法順師 釈文はマイクを通し参道中に響く
 弘法大師像がある今山に向かって登っていくと、途中から琵琶の音と釈文(しゃくもん)が聞こえてきます。懐かしい音色と“琵琶妙音曲”と言われる特徴あるダミ声。そう最後の盲目の琵琶僧と言われる延岡市山下町の長久山浄満寺住職・永田法順師(70)です。「お大師祭り」にはなくてはならない住職です。
 同師は、幼い頃、病気で失明し13歳で仏の道に入りました。研ぎ澄まされた耳から経文を暗記し、指で触れながら琵琶を学んだ法順師は、若い頃から墨染めの衣に琵琶を背負い、杖を頼りに千軒近くの檀家を訪ねて、家内安全、無病息災の祈りを捧げてきました。檀家には、床の間に米・塩・水を供え、四方を浄めて経典を読み上げ、家屋敷の不浄を祓い、琵琶を奏して、仏教説話を易しく解いた釈文を語り、家内安全などを祈願します。
 もともと江戸時代から、九州地方には、天台宗の僧籍を持つ盲僧たちが、檀家を訪ねて、家屋敷の不浄を祓い、琵琶を奏して家内安全を祈願する祈祷僧として活躍していました。この琵琶楽から江戸後期に薩摩琵琶が誕生し、北九州地方でも明治期になって筑前琵琶が生まれています。
 昭和20年に比叡山に届けられた南九州地区の盲目の琵琶僧は120名と記録されていますが、現在では檀家を訪ねて歩いているのは永田さんただ1人になってしまいました。
 このように檀家周りをする盲僧は、同師以外にいなく貴重な文化財として2001 年2 月「延岡市無形文化財」指定、2002 年10 月には「宮崎県無形文化財」に認定されています。
 また、今まで釈文を研究することもなかったこの貴重な財産を後世に残そうと大阪芸術大学などが、鮮明な音源を録音し研究を続けています。

シャンシャン馬道中再現
 
 宮崎市から日南海岸の美しい景色を見ながら南下すること1時間。
長い鵜戸トンネルを抜けて側道を5分程走った岬の先端に、神武天皇の父君に当たるウガヤフキアエズノミコトを祭ったとされる鵜戸神宮があります。神殿は太平洋の荒波による侵食で出来た洞窟の中にあり、洞窟中ほどに豊玉姫命が御子育児のため、両乳房をくっつけて行かれたと、言い伝えのある『おちちいわ』があり安産、育児を願う人々の拠り所となっています。また、その岩のすき間から滴り落ちる水で作った『おちちあめ』が有名です。

シャンシャン馬道中=鵜戸神宮=

かってシャンシャン馬道中の目的地だったのがこの鵜戸神宮です。宮崎や日南の農家では江戸の後期から大正の初め頃にかけて結婚すると鵜戸神宮にお参りする習わしがありました。
新婚のカップルは手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)にわらじ履きと言うたび姿で、宮崎からですと、七浦七峠の険しい山道を二日二夜かけて安産と育児祈願にお参りしていました。
 《鵜戸さん参りは春三月よ 参るその日が御縁日・・・》と、全国的にも有名な民謡・「シャンシャン馬道中唄」にも歌われています。
 シャンシャン馬とは、美しく飾った馬に花嫁を乗せて、花婿が手綱を取りながら鵜戸神宮へ向けて旅したもので、その時、馬に付けてあった鈴が、シャンシャンと道すがら鳴り続けていたことから「シャンシャン馬」と呼ばれるようになりました。
 現在では、この風習はなくなりましたが、宮崎神宮大祭や「シャンシャン馬道中を再現する会」、「シャンシャン馬道中唄全国大会」など、観光行事のひとつとして組み入れられています。

               鵜 戸 神 宮

左の方の暗い部分が神殿のある洞窟
鵜戸神宮神殿
 2007325日、その「シャンシャン馬道中を再現する会」が、日南市観光協会主催で日南市鵜戸神宮を舞台に行われました。当日は「シャンシャン馬道中唄全国大会」の決勝も、同じく鵜戸神宮で行われました。
 全国から応募のあった中から、日南市出身で現在、千葉県在住の稲門啓明さん(
24)と大場絵美さん(24)=神奈川県足柄上郡中井町のカップルが、結婚式を兼ね当時の衣装そのままに「シャンシャン馬道中」を再現しました。

★午前11時過ぎ留袖姿の新婦絵美さんが乗る馬を新郎の啓明さんが引くと、結婚式に参加した親戚や友人はもちろんのこと、折から参拝に訪れたたくさんの観光客も有名な儀式の再現を堪能。温かい祝福とともにこのこの珍しい光景をカメラに収めていました。

新郎の啓明さんは物静かなシャイな感じの青年。新婦の絵美さんは名前のごとく絵のように美しい笑顔がすてきな女性です。
絵美さんは、「昨日、あんなに雨が降り心配していたけど、今日は晴れてシャンシャン馬に乗れ大満足です。ウェディングドレスもいいけど、この衣装は、昔からの伝統があり重みが違います。」と,満面に笑みを浮かべ話していました。
お二人の新婚旅行の行く先はグアム島とのこと。古式ゆかしい伝統の結婚式。いつまでもこの日のことは忘れることなく記憶に残ることでしょう。
鵜戸神宮は安産・育児の神様。元気な赤ちゃんを産んでまた訪れて下さい。いつまでもお幸せに!!


                 《綾雛山祭り
 
 今年こそ行って写真に納めようと、思っていました宮崎県東諸県郡綾町の「雛山(ひなやま)祭り」に今日(2月25日)行ってきました。あいにくの雨でしたが、多くの人々が訪れ、町の商店街を中心に作られた雛飾りを観て回り感嘆の声を挙げていました。「雛山」の展示数は、全部で18でしたが、時間の関係で7箇所しか見ることが出来ませんでした。下手な写真ですが、紹介します。この地方に限らず、3月3日の花の節句に女の子が生まれた家庭で雛飾りをするのは、日本全国共通の伝統行事です。ただ、この地方では、江戸時代から家庭や親族に女の子が誕生したら、おひな様を飾って盛大に祝う習わしがありました。この伝統的な祭りを綾町の活性化に繋げようと、綾町の商工会女性部が中心となり、中央通り商店街に趣向を凝らした雛飾りを展示して、盛大なイベントとして企画したのが2001年です。まだ、町を挙げての行事としては歴史は浅いのですが、展示物の素晴らしさや、スタンプラリー、特産品の販売,手打ちそば販売コーナー、お休み処(抹茶、ぜんざい、コーヒー販売)、春の花・ラナンキュラス品種見本園公開などさまざまな催しが効を奏して、今では宮崎ばかりでなく県外からもたくさんの人々が訪れ、鮮やかな雛飾りを堪能しています。
祭りのパンフレットによりますと、この「綾のひな山」は、以下の如く説明がなされています。


会場マップ
華鮮さん
2001年に始まったこの祭りは、今年が7回目女性部の方に伺ったら年々、ひな山の出来栄えが良くなり、数も増えてそれとともに訪れる人々も毎年増え続けているとのことでした。2007年の開催期間は、2月24日から3月4日までです。展示品は主に町の真ん中を走っている中央通りに集中していますが、中には綾の里(町中心部から車で15分)や酒泉の杜(車で5分)、綾川荘、サイクリングターミナル、綾の手紬染織工房、あゆの山水(車で10分)など、若干不便なところにも展示してあります。詳しくは、パンフレットを見ながら探すことになります。案内が今ひとつはっきりせず、遠くから来た人にはわかりづらいと率直に思いました。

小野金物店

小野金物店

小野金物店

小野金物店男山
初めて来て、驚いたのはそのスケールです。もっとコンパクトに作ってあるのかとおもいましたが、圧倒されます。また、家庭に飾ってあるのと決定的に違うのは、もちろんスケールもそうですが、本物志向と言うことでしょうか。造花やプラスチックのような安っぽい材料はどこにも、見当たりません。上の下の段を締める船は木を繰り抜いて作ってあり、その中を鯉が泳いでいるのにはびっくりしました。小野金物店さんの店内には勇壮な男山も飾ってありました。


増田畳店

増田畳店

報徳寺

報徳寺
写真の腕が悪くて、増田畳店さんと報徳寺の中のひな山は、ぼやけています。特に増田畳店さんの作品は、平安時代の貴族が庭で歌を詠んで遊んだ風景が見事に再現されています。優雅でまさに雅な王朝絵巻と言った趣きのひな山です。増田畳店の右側の写真の真ん中の高い所から、本物そっくりに作られた滝から水が流れています。ほんと良く出来ています。報徳寺さんのひな山もコケ類や花々、梅の花などふんだんに使い見てても飽きない秀逸な作品です。

報徳寺

報徳寺

人材センター

人材センター

人材センター

人材センター
シルバー人材センターの「ひな山」は、圧巻です。見物人がひっきりなしに訪れ感嘆の声を挙げていました。ひな飾りは他のひな山とそう大きく違いはありませんが、周囲の飾りつけが見事なものです。ひな山に向かって右手には、大きな松を配し、その下に菜の花やパンジーなど春の花を添えています。
中央部分には膨大な量のコケ類が植えられています。その上には梅の花、ピラカンサやイモグス、最奥には巨木を配しています。まさに江戸の昔は、こんな風に作ったんだろうなと、思いがめぐります。また、向かって左手には、綾の照葉樹林帯を構成する椎の木、樫の木、カヤの木、クスの木など代表的な木々を配しています。また、下の写真の左端のようにひな飾りの下では鯉が泳いでいます。

人材センター

いづもや

いづもや

エーコープ
こんなひな飾りが、家にあったら女の子は喜ぶでしょう。
真ん中の2枚の写真は、定食のいずもやさんの作品。ここも綾の山中の木々をふんだんに使っています。そして右端が、エーコープの作品です。JAらしく野菜類がたくさん並んでいます。また、ひな飾りは比較的小ぶりですが、周囲に宮崎特産の日向夏を配しています。梅の花や椿は定番です。

熊須碁盤店全景

熊須碁盤店左

熊須碁盤店右

熊須碁盤店左
熊須碁盤店のスケールの大きさは、他を圧倒しています。大きな倉庫の一番奥に作られています。幅が10mはあろうかと言うほどの大きさ。写真の男性と比べて見るとその大きさがわかるでしょう。左右にひな壇をそれぞれひとつずつ配しています。左端には、滝を初めコケやヒマラヤ杉、奇岩、松、天井には枯れ枝を配するなど非常に凝った作りです。実は、この作品宮崎県高鍋町にある南九州大学造園学部庭園デザイン学を専攻している学生さんの作品です。将来は造園や庭園デザイン界に進もうかと言うプロの卵の作品です。昨年もひな山作りに挑戦したとのこと。学生にとっては、格好の実習でしょう。
ただ、これも写真の映りが悪く細かな非常に繊細な部分をお伝えできないのが残念です。

 

・・・綾の『ひな山』は江戸時代にはじまり、北麓の梅藪地区が発祥の地とされています。
女性は昔より山の神とされ、山の神が住むのにふさわしいもので御祝いをしてあげなければという想いから『ひな山』がつくられたといわれています。
決して豊かではない生活の中で、長女が生まれると親戚や隣近所の人たちが、粘土で土人形や木の枝で木製の人形などをつくり、山や川で拾ってきた巨木や、古木、奇岩、輝石を飾りつけ、花木などを持ち寄って奥座敷に山の神が住む風景を再現したものが『ひな山』のはじまりであると伝えられています。
『ひな山』には、長女のすこやかな成長と末永くしあわせにとの願いが込められています。・・・
綾で生まれた女の子、特に長女は羨ましいですね。こんなに大切に、しかも「山の神」として、大事に育てられたのですから。裏を返せばそれだけ男たちが優しく女性に接していたと言うこともできるでしょう。実は、私の嫁さんも綾町の生まれですが、長女ではありませんが、かなり親や兄弟から可愛がられたようです。
                
               《宮崎神宮大祭》



別名神武大祭と言われ、地元では「神武さん」の名で親しまれている宮崎県では一番規模の大きな祭りです。

最近は毎年、10月の最終土、日に行われていて宮崎神宮を出発した神賑行列が宮崎市の繁華街を縦断、神輿やかわいらしい稚児や花馬車が人の歩く程度のスピードで宮崎神宮から約5km先のお旅所まで練り歩きます。

また、この行列には地元企業などから選ばれたシャンシャン馬も花を添えます。
神賑行列の規模は1000〜1200名程度で沿道は、近隣市町や地元の人など、たくさんの見物客が歩道を埋めます。

祭りの形態も年とともに変わってきて、以前はシャンシャン馬に乗る「ミスシャンシャン馬」は県内各都市から選ばれていたのですが、近隣の7町代表になり、さらに現在は地元の企業からの選出に変わって来ました。

因みにシャンシャン馬とは、宮崎に昔からある風習のひとつで、結婚し立ての花婿が、花嫁を馬に乗せて鵜戸神宮に宮参りに行く時、馬につけた鈴の音がシャンシャンと鳴ることからそう呼ばれるようになりました。

神賑行列は、お旅所で1晩を過ごし翌日、同じ経路で宮崎神宮まで戻ります。

2日間の祭りの間は市内中心部が歩行者天国になり、露天が軒を連ね、郷土芸能の披露やのど自慢、ダンスコンクールなど夜遅くまで賑わいます。

        祭りごとの終焉
              
安藤忠恕前宮崎県知事逮捕

安藤忠恕(ただひろ)前宮崎県知事
が、県の出納長など部下に対し、東京の設計会社に発注するよう指示を出していたとして12月8日午後、警察に任意同行を求められ、宮崎北警察署での取調べの結果、競売入札妨害の容疑が固まったとして逮捕されました。
この1ヶ月宮崎県の幹部職員や業者が官製談合の疑いで次々と逮捕されるなか、前知事は議会や記者会見などで同事件への関与を強く否定してきました。県議会はそうした知事の、県政を混乱に陥れた責任と多数の直属の部下の逮捕など倫理的な責任から不信任決議案を提出し、全会一致で可決しました。安藤知事はこれに対し、議会解散や知事失職などの選択肢をちらつかせながら、結局は自ら辞職の道を選んでいました。警察の取調べで逮捕されたかっての複数の部下から、前知事の関与を示唆する供述が得られたものとみられています。
捜査員とともに知事公舎を出る安藤前知事

それにしても、このところの公務員の汚職事件はどうなっているのでしょうか。福島県ではダム汚職事件で、和歌山県では官製談合にからむ収賄容疑で知事が逮捕され、次は宮崎県。恥ずかしくて全国へ顔向けできません。宮崎県で知事が逮捕されたのは、これが2度目。前回は黒木天皇と呼ばれた故黒木博氏(後に最高裁?で無罪が確定)で、昭和54年トンネル工事にからむ受託収賄容疑で逮捕され知事を辞職しました。「3000万受け取りました」と言う領収書がマスコミに出回わってっていたのを思い出します。結局、無罪となりましたが、この時の事件をきっかけに、政治の世界での影響力は急速に衰え、やがて隠遁生活へと入って行きました。
これまで事件には無関係と強調、「辞職は事件への関与を認める事になるから、絶対にしない」と言い切っていた安藤知事、今日の逮捕ですべてが気泡と化してしまいました。
                              報道陣を横目に公舎を出る安藤前知事を乗せた車

辞職の会見の時も「悔しい」、「無念でならない」を連発して「折角、手に入れた知事の座を離してなるものか」と言う態度がミエミエでしたが今頃、警察の独房で何を思っているのでしょうか。
この安藤前知事にはいろいろな「いわく」があります。選挙期間中は当選したい一心で、「県民が主役」「県政の改革」を盛んに訴えていました。また、特に、選挙で反対していましたシー-ガイアやスカイネットアジア航空への公金投入をあっさり認めたり、世界遺産への登録を目指していた綾の照葉樹林帯のど真ん中に九州電力の送電線を認めたりと、さらに前知事に近い幹部職員を大量に左遷する「報復人事」を敢行したりと、当選した途端に豹変し、公約を次々と破る節操のなさに唖然としました。
空には、ヘリコプターが飛び交い、公舎周辺はたくさんの報道陣が行き交い騒々しかった逮捕劇がようやく終了した。安藤前知事が住む知事公舎には、同氏立件の憶測が流れ始めた3〜4日前から連日、報道陣が詰めかけ同前知事の逮捕の瞬間を追った。一方、公舎周辺には、報道関係者がチャーターしたタクシーが何十台も道路を占拠し、つかの間の「特需」に、ほくそ笑んだり複雑な表情を見せたりと、運転手も戸惑いを隠せなかった。

さらに、後援会幹部の妻に対して、知事当選の暁にはしかるべき地位を約束する念書を書き、この妻が公職選挙法の利益誘導に当ると、検察庁に控訴する事態に発展しました。これに対し、安藤知事は当時の県議会の答弁で念書は自筆である事を認めながらも、「異様な雰囲気で強いられたもの」と釈明して、この後援会幹部を強要罪で告訴すると表明する「泥仕合」となりました。
しかし、結局、嫌疑不十分で不起訴となり、うやむやのうちに闇に葬り去られた感じです。
3年間、結局何をしたのでしょう。ここ1ヶ月の激動では、いろいろなところに大きな影響が出ています。
逮捕者が出た直後の県庁での綱紀粛正を求める知事の要請をあざ笑うかのように、県庁職員が泥酔いの挙句、他人の家に上がり込んで、「オレは、土木部だ」と勇ましいこと。
ネオン街では、タイミングが最悪で、県や公務員、建設関係の業者の忘年会が次々とキャンセルになり、「年が越せない」と嘆く料亭、居酒屋、飲み屋、タクシー業者など苦りきっています。
一方、マスコミは、全国紙など福岡や東京から数十人単位で応援部隊を派遣、ホテルはこの時期潤っています。
また、知事公舎前や警察、県庁には1日貸切りのタクシーがずらりと並び、こちらはホクホク顔。宮崎の年末は悲喜こもごもに暮れて行っています。
ところで、知事辞職に伴う出直し知事選挙は来年早々に行われる見通しで、地元出身の有名タレントの名が取りざたされていますが、実のところ人材不足は否めないのが現状です。
12月9日の朝刊は、どの紙も安藤前宮崎県知事の逮捕を1面トップに持ってきていたが、なかでも、任意同行の号外発行を含め、地元紙の派手な扱い具合が特に目を引いた。


 《高千穂夜神楽祭り》

神話と伝説の里、高千穂には神々に秋の収穫を感謝し五穀豊穣を祈る神楽の伝統が、古来から脈々と伝承されています。

毎年11月、収穫が終わるのに合わせて始まり翌年の2月はじめまで、ほぼ土曜日の夜から翌日にかけ夜を徹して、「ほしゃどん」と呼ばれる舞子が、笛や太鼓の音に合わせ全三十三番を舞い、集落の守り神である氏神さまに奉納します。

この高千穂神楽は、国の重要無形文化財に指定されています。


神楽を舞う場所は、高千穂各地60集落のうちの約20の集落の、一般の農家で神楽宿に指名された農家は、早くから準備に取りかかり、見物人には煮しめやこの地方独特のカッポ酒が振舞われます。

神楽宿はたくさんの遠くから訪れた観光客や見物客で入り切れないほど。

そして、最後の三十三番が終わり周りが薄っすらと白み始めるまでこの神秘的で神々しい舞いに酔いしれます。

冬の宴が終わる2月の中頃には、この地方にも遅い春が訪れます。

                 平成18年度高千穂の夜神楽日程表
                 (国指定重要無形民俗文化財)

月   日 地 区(神 社) 公民館 神楽宿 距離(km 駐車台数
11.18(土) 押方(中畑) 五ヶ村東 五ヶ村東活性化センター 7.0 30
11.22(水) 上野(柚木野) 下組(岩坪) 佐藤 人志  7.0 100
11.22(水) 上野(上野) 玄武(上西) 興梠 哲法 7.0 30
11.22(水) 下野(八幡) 下野西(八幡) 甲斐 清仁 8.0 100
11.24(金) 上野(黒口) 黒口 黒口研修施設 9.0 50
11.25(土) 芝原東(芝原) 芝原東 芝原神社社務所 8.0 20
11.25(土) 岩戸(御霊) 上永の内(左目木) 工藤 喜志子 8.5 100
11.25(土) 向山(秋元) 秋元(南) 飯干 高子 13.0 50
12. 1(金) 押方(二上) 三原尾野(上組二) 興梠 勝明 4.0 20
12. 2(土) 岩戸(歳) 五ヶ村 神楽館 8.0 100
12. 2(土) 三田井(逢初天神) 下川登 下川登公民館 1.5 30
12. 9(土) 押方(嶽宮) 上押方 鎮守の杜たけみや 3.0 20
12. 9(土) 岩戸(石神) 野方野 野方野集落センター 5.0 50
12.16(土) 三田井(磐下権現) 浅ケ部(堂園) 甲斐 國市 3.0 20
1.13(土) 河内(熊野鳴滝) 中西(西) 冨 國義 15.0 20
1.20(土) 向山(山中) 尾狩(狩底) 甲斐 照一 13.0 30
1.20(土) 下田原(熊野) 下田原(釜石) 林 利朗 12.0 20
1.27(土) 向山(柘ノ滝) 黒仁田 黒仁田活性化センター 8.0 25
2.10(土) 上田原(熊野) 上田原(今狩) 戸高 香 11.0 70
高千穂神楽についての詳細は下記へ問い合わせください。    (町商工観光課発表)
高千穂町観光協会     TEL 0982−73−1213(休日・祝祭日も可)
観光案内所(宿泊関係)  TEL 0982−72−4680


宮崎の祭り


夜神楽のふるまいについて

 
夜神楽は秋の収穫感謝祭、冬の鎮魂儀礼、春の豊穣余祝を祈願する「氏神様の村まつり」です。
高千穂の村まつりは氏神様を里の神楽宿にお招きし、33番の神楽を夜を徹して奉納するのが、古くからのシキタリです。
祭りの風景のなかで、カッポ酒、煮物等のふるまいが紹介されていますが、「ふるまい」は、年に一度降臨された神々と里が神人一体となる直会の儀式料理です。

近年、本物志向から「村まつり」に参座される観光客の方々も年々増加し交流として「ふるまい」をされる集落も増えていますが、その接待は神事儀礼の一環であり、村々の考えで行われています。

お見えになった方々が、食事代として、初穂料・ご神前を供えられ、ふるまい料理を要求される事も多々ありますが、村各々のシキタリの中で接待されますので、ご理解いただきますようお願い致します。



ところで、町の中心部に位置する高千穂神社では、1時間から1時間半程度にまとめられた観光用神楽が年中行われていて、夜神楽の神秘的な一側面を体感することが出来ます。この件についても、前述の連絡先で詳しく案内していただけます。

高千穂の由来


高千穂は天孫降臨(てんそんこうりん)の神話や伝説が息づく山里です。国見ヶ丘から秋の早朝にでる雲海を眺めると、ここが神話の国であることが実感としてよくわかります。天孫降臨(てんそんこうりん)の神話は「古事記」、「日本書紀」、「風土記」などに書かれているようです。それは、
乱れた地上界を心配した天照大神(アマテラスオオミカミ)が孫にあたる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に地上界へ降りて国を治めるように命じました。日向國風土記によるとニニギノミコトが降り立ったのが日向の高千穂の二上の峰です。しかし、辺りは暗く何も見えず、立ち往生していると、そこにツチグモ族の大クワ・小クワと名乗る二人が現われ、「ミコトがお持ちになっている稲穂から籾を取り、四方に撒けば、きっと晴れ渡るでしょう。」と言う。ミコトがそれに従うと、みるみる空が明るくなり、日と月が輝き始めた。これにちなんで、この地を「高千穂」と名付け、後に「智鋪」と改められた。
という話です。 この国見ヶ丘は標高は513mで、驚くほどの高さは無いですが、足元に高千穂盆地、西に阿蘇外輪山、北には九州の尾根祖母山(標高1757m)の連峰がそびえ、南には椎葉の山々の連なりを見ることができます。 国見ヶ丘の地名は伝説によると、神武天皇の御孫建磐龍命(たけいわたつのみこと)が筑紫の国の統治の命を受け、下日向県(しもひゅうがあがた)を経て阿蘇に向かわれる途中に、この地で四方をのぞまれた。これにより「国見ヶ丘」といわれるよ
うになったと伝えられています。


天岩戸


天岩戸(あまのいわと)とは、日本神話に登場する岩で出来た洞窟である。天戸(あまと)、天岩屋(あまのいわや)、天岩屋戸(あまのいわやと)とも言い、「岩」は「石」と書く場合もある。

太陽神であるアマテラスが隠れ、世界が真っ暗になってしまった岩戸隠れの伝説の舞台である。

誓約によって身の潔白を証明したスサノオは、そのまま高天原に居座った。そして、田の畔を壊して溝を埋めたり、御殿に糞を撒き散らしたりの乱暴を働いた。他の神はアマテラスに苦情を言うが、アマテラスは「考えがあってのことなのだ」とスサノオをかばった。
天岩戸神話を今に伝えるこの神社は、天照大神がお隠れになった天岩屋戸を御神体とする西本宮と、大神をお祀りする東本宮にわかれています。御神域である天岩屋戸の遙拝は社務所にお願いすれば案内していただけます。近くには岩戸開きのご神議が開かれた「天安河原」もあります。

しかし、アマテラスが機屋で神に奉げる衣を織っていた時、スサノオは機屋の屋根に穴を開けて、そこから皮を剥いだ馬を落とし入れ、一人の天の服織女が驚いて梭(ひ)で陰部を刺して死んでしまった。ここにきてアマテラスはスサノオの行動に怒り、天岩戸に引き篭ってしまった。高天原も葦原中国も闇となり、様々な禍(まが)が発生した。

そこで、八百万の神が天の安河の川原に集まり、どうすれば良いか相談をした。オモイカネの案により、様々な儀式を行った。常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせた。天の安河の川上にある堅い岩を取り、鉱山の鉄を採り、鍛冶師のアマツマラを探し、イシコリドメに命じて八咫鏡(やたのかがみ)を作らせた。タマノオヤに命じて八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)を作らせた、アメノコヤネとフトダマを呼び、雄鹿の肩の骨を抜き取り、ははかの木を取って占い(太占)をさせた。賢木(さかき)を根ごと掘り起こし、枝に八尺瓊勾玉と八咫鏡と布帛をかけ、フトダマが御幣として奉げ持った。アメノコヤネが祝詞(のりと)を唱え、アメノタヂカラオが岩戸の脇に隠れて立った。アメノウズメが岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りをして、胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。

この声を聴いたアマテラスは、何事だろうと天岩戸の扉を少し開け、「自分が岩戸に篭って闇になっているというのに、なぜアメノウズメは楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。アメノウズメが「貴方様より貴い神が表れたので、それを喜んでいるのです」と言うと、アメノコヤネとフトダマがアマテラスの前に鏡を差し出した。鏡に写る自分の姿がその貴い神だと思ったアマテラスが、その姿をもっと良く見ようと岩戸をさらに開けたとき、隠れていたタヂカラオがその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。すぐにフトダマが注連縄を岩戸の入口に張り、「もうこれより中に入らないで下さい」と言った。こうしてアマテラスが岩戸の外に出てくると、高天原も葦原中国も明るくなった。

八百万の神は相談し、スサノオに罪を償うためのたくさんの品物を科し、髭と手足の爪を切って高天原から追放した。
 (フリー百科事典『ウィキペディア参照)

高千穂神社

建はおよそ1800年前といわれ、日向三代の神々と神武天皇の御兄三毛入野命一族が祀られています。国指定重要有形文化財の「社殿」「鉄造狛犬一対」をはじめ、境内にある樹齢800年の秩父杉が歴史を物語ります。神楽殿では毎日、観光神楽が舞われています。(参考:高千穂町観光協会)



神門神社の師走祭り
               
《師走祭り》

西暦660年に唐と新羅の連合軍に滅ぼされた百済一族が追ってを逃れ朝鮮半島から海を渡る途中、嵐に遭い父の禎嘉王(ていかおう)は日向市の金ヶ浜に、息子の福智王(ふくちおう)は南方30kmの高鍋町蚊口浦の海岸に漂着。

一族はそれぞれの地で亡くなった後、王は美郷町の神門神社に、息子は高鍋から内地10`入った木城町の比木神社に、それぞれ村人から神として祀られた、と言われる百済伝説があります。

師走祭りは、この伝説に基づくもので1000年以上もの間、村人に受け継がれ、今に至っています。

因みに宮崎県の祭りで、ここまでの歴史と伝統を持つ祭りはこの祭りと神楽ぐらいでしょうか。

現在は年に一度、1月末の3日間、行われていますが、交通手段のなかった時代には10日から2週間かけて、比木神社から徒歩で神門神社まで、はるばるやってきたと言われています。

前述のように、宮崎県には神社に絡めた祭りが数多くありますが、この師走祭りは、比木神社と神門神社との間で行われ、父君の禎嘉王が眠る神門神社に息子の福智王が会いにいく儀式で、他の例大祭などと趣を異にしています。

ふたつの神社は約80kn離れていますが、このように合同で開催する古い形態を残す祭りとして文化庁の指定を受けています。

祭りの伝統、格式などは非常に高く福智王が滞在する間、神門神社にはたくさんの観光客が訪れ、夜神楽やさまざまな行事で、百済一族の悲哀や遠い、いにしえに思いを馳せます。

初日は、伝説に基づき禎嘉王が漂着したと言われる金ヶ浜でみそぎを行い、道中、沿道で儀式や神楽を奉納し、目的地の神門神社では高さ5mの「迎え火」が比木神社の一行を迎えます。

最終日の朝には別れを惜しむかのように顔に、かまどのすすを塗りあう「ヘグロ塗り」をし、一行は無言で比木神社に戻っていきます。

《日向ひょっとこ夏祭り》

ひょっとこ踊りは、江戸の末期に日向市塩見の永田地区が発祥の地とされています。

豊作に感謝し、商売繁盛を祈る踊りとして年々盛んになり、いまでは日向市は知らなくても、ひょっとこ踊りは知っていると言うほどに有名になっています。

「日向ひょっとこ夏祭り」は毎年8月に日向市の中心部で行われ、全国から愛好家が集い、大人ひょっとこから、かわいらしい子供ひょっとこまで、踊り歩き沿道の観客の飛び入りもあり、まさに楽しく笑いの絶えない宮崎県を代表する祭りです。

笛や太鼓の「テンテコテン・・テンテコテン」の単調なリズムに反比例して踊りはユーモラスです。

特に、最近は腰つきが派手でオーバーに強調された踊りがもてはやされて宴会の席などで見かけますが、元来は、動きに品があり淡白さが強調される踊りです。

「橘ひょっとこ踊り保存会」が発祥の「もと踊り」を、一般に浸透している踊りと区別し「永田ひょっとこ踊り」として守り続けています。

《祭り・・えれこっちゃみやざき》

札幌の「YOSAKOIソーラン踊り」の成功に触発されてここ最近、全国的に派生した各地の夏のイベントの宮崎版と言ったところでしょうか。

「えれこっちゃ」とは、「大変だ」の宮崎弁。歴史は浅いですが、宮崎の夏を代表する祭りとして年々スケールアップしています。

開催時期は、おおよそ7月最後の土、日の2日間です。

宮崎市のメインストリート橘通りをいっぱいに使い、宮崎民謡「のさん節」に合わせ数千人が踊る「市民総おどり」や太鼓の鉢(ばち)裁きコンテスト、創作ダンスを駆使したパフォーマンス・ダンスや顔にペインティングを施した若者やお揃いの衣装に身を包んだダンスチームが日頃、練習した腕前の成果を競います。

動と静、老若男女が入り乱れて踊る姿は見ているだけでも壮観です。

地元宮崎県をはじめ祭りには、九州や全国各地からダンスチームが参加、観客も毎年増え続け20万人を超えるまでになりました。

今後、宮崎ばかりではなく「夏の祭り」の代名詞として全国的に「えれこっちゃ」が発展していくことを望んでいます。



   
宮崎神宮大祭御神幸行列      
宮崎の県鳥コシジロヤマドリ

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